果てしなきスカーレット


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■はじめに

 私は細田守監督のファンではない。かといってアンチでもない。だいたい彼の作品は1作しか観ていないので(おいおい)。ちなみにそれは『竜とそばかすの姫』。

 この作品については過去に記事に書いた記憶がある。今読み返してみてもけっこうまともなことを書いてる(自画自賛)。興味を持たれた方はちょっと覗いてみていただきたい。検索ボックスから探せば見つかります。

 アニメ大国と言っていい現代日本だが、原作なしのオリジナル作品として劇場用長編アニメーション製作し、発表できる監督はそういない。その中で宮崎駿、新海誠、細田守が三本柱であることは間違いないところだろう。だから細田守氏には頑張って貰いたいと思っている。


■そして『果てしなきスカーレット』へ

 そんな私が細田監督4年ぶりの新作『果てしなきスカーレット』を観てきた。観たのは12月上旬。公開後して3週間くらい経っていて、ネットでけっこう叩かれていたので、早く観に行かないと上映回数が激減してしまうと思って焦って観に行った。
 以下の文章はその時に思ったこと感じたことをだらだらと書き連ねたもの。例によってまとまりがない駄文の羅列になってます。

 いちおう断っておくけれど、この記事は『-スカーレット』を評価している人、褒めてる人からすると、かなりオモシロくない内容になってる(であろう)ことを予めお断りしておく。


■あらすじ

 ではまず内容の紹介から。以下は公式サイトの「STORY」より引用する。

* * * * * * * * * *
“生きる意味” を見つけていく――

父の敵(かたき)への復讐に失敗した王女・スカーレットは、《死者の国》で目を覚ます。

ここは、人々が略奪と暴力に明け暮れ、力のない者や傷ついた者は〈虚無〉となり、
その存在が消えてしまうという狂気の世界。

敵である、父を殺して王位を奪った叔父・クローディアスもまた

この世界に居ることを知り、スカーレットは改めて復讐を強く胸に誓う。

そんな中彼女は、現代の日本からやってきた看護師・聖(ひじり)と出会う。

時を超えて出会った二人は、最初は衝突しながらも、《死者の国》を共に旅することに。

戦うことでしか生きられないスカーレットと、戦うことを望まない聖。
傷ついた自分の身体を治療し、敵・味方に関わらず優しく接する聖の温かい人柄に触れ、
凍り付いていたスカーレットの心は、徐々に溶かされていく―。

一方でクローディアスは、《死者の国》で誰もが夢見る “見果てぬ場所” を見つけ出し、

我がものにしようと民衆を扇動し、支配していた。
またスカーレットが復讐を果たすために自身を探していると聞きつけ、
彼女を〈虚無〉とするために容赦なく刺客を差し向ける。

スカーレットと聖もまた、次々と現れる刺客と闘いながら、

クローディアスを見つけ出すために、“見果てぬ場所” を目指してゆく…。

そして訪れる運命の刻。


果てしない旅路の先に、スカーレットがたどり着く、ある〈決断〉とは――

切り拓く。新しい自分を――

* * * * * * * * * * (引用ここまで)


■評価の前に

 観に行く前に ”大コケ” という声がネットから聞こえてきた。公開して3週間という時期だったけど、平日の昼間だったせいか、客は私を入れて3人しかいなかった。「正月の目玉映画」としてはいささか寂しい状態だった。

 内容については、事前の ”不評” 情報のせいで観る前からハードルが下がっていたせいか、思ったよりひどくはないと思った。ストーリーも理解できたし、前作『竜-』みたいに終盤の展開で戸惑うこともなく、ある意味予想の範囲内に着地したし。

 とはいっても、手放しで褒められる作品でもないように思う。ストーリーとは別に、私の頭の中にはいろいろ疑問が浮かんできた。そのあたりをとっかかりにいろいろ書いていこうと思う。


■なぜ舞台が《死者の国》なのか

 舞台は《死者の国》。主人公であるスカーレットがいきなり返り討ちに遭って死んでしまうのも驚いたが、もっと驚いたのは敵側、つまりクローディアス側のキャラたちもそろって《死者の国》にいたこと。

 「一体なんでこうなるの?」

 シェイクスピアの「ハムレット」がどうたらダンテの「神曲」がこうたらという話も聞いていたけど、観てる人全員がそれを知ってるわけでもないし、知ってたら納得できるというものでもないだろう。

 観ている間に私の頭に浮かんだ考えは

 「《死者の国》って ”魔空空間” みたいだなぁ」というもの。

 私の頭の中は「昭和」で止まっているので、平成生まれで知らない人も多いかと思う。詳しくは Wikipedia でも見ていただくとして、簡単に解説すると『宇宙刑事ギャバン』(1982年)という特撮TV番組に登場した設定だ。

 「魔空空間」とは、宇宙刑事ギャバンの宿敵である宇宙犯罪組織マクーが、戦闘時に創り出す亜空間。そこではマクーが送り出すモンスターがパワーアップすることができるのだが、ギャバンもまた、あえて自らそこに飛び込んで戦う。それによって実世界での破壊と被害を食い止めることができるから。

 という説明はあるのだけど、実態はギャバンの制作者側の都合だったようだ。市街地や屋内での撮影に制限があったため、それを回避するために産み出された設定らしい。

 同様に《死者の国》はスカーレットの闘いのために(制作者によって)生み出された空間なのだ、と考えるといろいろ腑に落ちる。だからスカーレットもいるし敵もいる。ここで戦えば現実世界に被害は及ばない。


 そして、それ以外にも利点があるように思う。

(1)残虐な戦闘描写を避けることができる

 日本でこそアニメーションは大人が鑑賞できるものとして市民権を得てきたが、欧米ではまだまだ子ども向けと捉えられている。それはディズニーの作品群を観れば解るだろう。そんな中に入っていって競合するには、残虐な戦闘描写は御法度だ。大量の出血など描こうものなら、とても上映させてもらえない。
 ところが《死者の国》では、戦闘で死んだ者は血を流す前に塵と化してしまう。だから流血描写はほとんどない。

(2)聖との意思疎通

 本作のキーパーソンとして日本人の聖が登場するが、中世デンマークの王女と現代日本の青年が意思疎通するのはかなり困難だろう。
 ところが《死者の国》というファンタジー世界に二人を放り込んでしまえば、言葉が通じることに突っ込まれる心配はない。
 もっとも、最初からスカーレットをファンタジー世界の王女に設定してしまえば問題ないことだったんだけど、監督はどうしても ”こちらの世界” に実在した国家の王女にしたかったんだろう。何故かは解らないが。

(3)舞台の整理

 クローディアスは現実世界では一国の王になったはずなんだが、《死者の国》での彼はせいぜい盗賊の親玉くらいにしか見えない。現実世界で存在するスカーレットとクローディアスの間にある諸々を整理し、単純化して見せる効果もあるように思う。

 ・・・というふうに考えてみると、この《死者の国》というのは、結局は制作者側による ”作劇上の都合” によるもののようにも思えてくる。


■テーマは「赦し」

 スカーレットの父・アムレットが娘に向けて最後に残した言葉は「赦せ」。

 これが本作のテーマであることは間違いないところだろう。
 殺戮の連鎖は平和につながらない。どこかの時点で相手を赦さないと、闘いは永遠に続く。とても崇高で重いテーマだが、それを二時間で描くには尺が足りなかったのではないかと思った。

 『機動戦士ガンダムSEED』(2002年)というアニメが、まさにそれをテーマにしていた。 作中であるキャラが叫ぶ。「殺されたから殺して、それで最後は平和になるのかよ!」

 主役の二人の少年が、近しい者を殺されたことをきっかけに親友と殺し合う。だがそこからは何も生まれず、二人の少年は戦いを止めるべく新たな道を選んでいく。
 一回30分のアニメだが、一年間・4クールをかけてそれを描いていた。それくらい、じっくりと取り組んで描きべきテーマなのだろうと思う。


■細々としたところとして

 終盤、聖がスカーレットから「生きたい!」という言葉を引き出す場面。実際のところ、彼女自身が内心ではそう思っていたかもしれない。だけど、あの展開では聖が無理矢理言わせたように見える。あそこは彼女が自ら素直に自分の心情を語り出すように物語を持って行かないといけないんじゃなかろうか。

 さらにラスト近く、スカーレットが大衆を相手に演説をするシーン。演説をすること自体が悪いとは思わないが、内容はもう少しなんとかならなかったのかと思う。

 例として上の二つのシーンを挙げたが、総じて『竜と-』よりは破綻は少ないものの、ところどころ説得力の乏しさを感じさせる脚本だったように感じた。


■脚本

 本作の脚本は、細田監督自身によるもの。ネットの評判では「ちゃんとした脚本家を立てたほうがいい」という意見が多いように思う。過去の作品では脚本家として奥寺佐渡子氏が参加しており、それらの作品の評価は高かったようだ。


 彼女が外れてから脚本の質が落ちたという意見もあるが、私は彼女が参加していた時代の細田守作品を観ていないのでそこには触れない。

 ただ、今年大ヒットした映画『国宝』に奥寺氏が参加していたことから、彼女が優れた脚本家であることは間違いないのだろうとは思う。

 アニメーション映画は実写映画よりも監督の個性が前面に出る傾向があり、実際、宮崎駿も新海誠も自ら脚本を書いている。細田監督もそれに倣ったのかな、とは思うが。


■声優の件

 本作には声優が本業ではない、いわゆる人気俳優さんが大挙して起用されている。全般的に皆さん上手だ。一昔前は、人気俳優を起用するとその ”棒読み” ぶりにアニメファンが激怒する、というのがお決まりのパターンだったが、最近の俳優さんは声の演技も上手くこなす人が増えたように思う。

 主演の芦田愛菜さん。とても上手いと思う。専業の声優さんに負けない力量を持っていると思うが、残念なことに有名人なので(TVCMに出まくっている)、ごくたまに声の後ろに顔がうかんで来るんだよねぇ。それさえなければ完璧だったと思う。

 思えばジブリ映画にも有名俳優さんが出てた。上手い人は上手いんだが、有名俳優故に顔が浮かんできてしまうのが玉に瑕。『千と千尋-』の菅原文太とか、『ハウル-』の倍賞千恵子とかキムタクとか。


■リピーターが・・・

 現代に於いて、映画がヒットするには熱心なリピーターの存在が欠かせない。上にも書いたが今年のヒット作で実写映画興収新記録となった『国宝』(2025/6/6公開)ももちろんだが、『爆弾』(2025/10/31公開)もけっこうリピーターがついたらしく、いまだに興収トップテン内に入っている(2025/12/27現在)。


 アニメ映画の場合は最初からリピーターを当て込んで、週替わりの入場特典の配布をするのはもう常識になっている。
 ところが本作は、テーマは崇高だが何度も足を運んで観たいと思わせる雰囲気の作品ではないように感じる。週替わりの入場者特典もないし、なんともリピーターがつきにくい作品になってしまっているように思う。


■終わりに

 この記事の冒頭に、細田監督の前作『竜とそばかすの姫』について書いた記事に触れたが、その記事の最後に書いた文章をもう一度ここに掲げよう。

 残念ながら「もう一回観たいな」って思わせる映画ではありませんでした。

 前作も今作も、私の結論はこの一文に集約されている。

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