ゴールデンタイムの消費期限



ゴールデンタイムの消費期限 (角川文庫)

ゴールデンタイムの消費期限 (角川文庫)



  • 作者: 斜線堂 有紀

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA

  • 発売日: 2024/01/23

  • メディア: 文庫








評価:★★★★





 小学生で小説家デビューし、"天才" と呼ばれた綴喜文彰。しかしその後スランプに陥る。

 高校三年生になった綴喜は、あるプロジェクトに誘われる。それはAI・レミントンの力を利用して、ふたたび天才として返り咲く、というもの。

 山奥の施設に集まったのは、綴喜を含めて6名の若者。いずれも元・天才と呼ばれた者たちだった・・・



* * * * * * * * * *



 小学校の頃に書いた作文が次々と入賞し、それがきっかけで小説家デビューした綴喜文彰(つづき・ふみあき)。中学二年で出した『春の嵐』はミリオンセラーとなり、"天才小説家" と呼ばれるようになった。



 しかしその後は深刻なスランプに陥り、高校三年生の今に至るまで一冊の本はおろか短編の一作さえも書けていない。

 そんなとき、担当編集者からあるプロジェクトへの参加を勧められる。



 それが行われるのは人里離れた山奥の施設。そこに集められていたのは、いずれも18歳から20代はじめくらいの若者たち。

 料理人・真取智之(まとり・ともゆき)、ヴァイオリニスト・秋笠奏子(あきかさ・かなこ)、日本画家・秒島宗哉(びょうしま・そうや)、棋士・御堂将道(みどう・まさみち)、映画監督・凪寺(なぎでら)エミ。

 いずれも、かつては "天才" と世を騒がせたが、いつの間にか表舞台から姿を消していた者たちだった。



 プロジェクトの内容は、AI・レミントンの力を借りて彼らの才能を後押しし、"天才" として返り咲かせよう、というもの。それは政府が直々に支援にあたる。天才を量産できれば国益につながる、という思惑からだ。





 レミントンが彼らに与えるのは "目標" だ。学習した膨大なビッグデータから ”大衆に受けるもの”、”大衆が求めるもの” を割り出し、それを彼らに提示する。

 たとえば秋笠には、レミントンが創り出した理想の演奏を聞かせ、それを再現させようとする。他の者も同じだ。秒島には題材と構図を与えて絵を描かせる。綴喜には詳細なプロットを与え、それを小説として完成させる。



 しかしそれは創作なのか? レミントンの手先になることではないのか?

 6人の対応は様々だ。進んでそれに乗っかる者、断固拒否する者、とりあえず云うとおりにしてみる者・・・。



 プロジェクトの行われる11日間の、彼らの間の葛藤を、ときおり起こる "トラブル" を織り込みながら描いていく。

 作者はミステリ作家だと私は認識しているのだが、本書はミステリではない。ではないが、要所要所に "小さい謎" を仕込んでは解決させていくという方法で読者の関心をつなぎ、最後までどんどん読ませていくのは上手いと思う。





 子どもの頃からずば抜けた才能を示すのは、必ずしも幸福ではないのは想像がつくが、本書では六人それぞれの "これまでの半生" も描かれていく。中でも秋笠と凪寺のエピソードは印象的だ。



 母親がかける期待に応えられず、見捨てられたと感じて苦しむ秋笠。彼女がヴァイオリンを弾く理由は、母親に認めてもらうため。

 巨匠と呼ばれる映画監督の娘に産まれた凪寺は、父の与える "英才教育" という名の無茶振りに苦しめられる。

 この父親の振る舞いは常軌を逸している。私くらいの年代ならば、「巨人の星」の星一徹を思い出すだろう。息子・飛雄馬を「巨人の星」に育て上げようとあの手この手で鍛えあげる姿は、そのまま凪寺の父の姿に重なる。

 だが、凪寺の父が娘にふっかける無理難題の数々は立派な虐待だろう(昭和の時代だって許されることではないと思うが)。





 「栴檀は双葉より芳し」ともいうが、双葉の頃から芳しい植物がすべて栴檀へと成長していくわけではない。「ハタチ過ぎればただの人」というのも、よく聞く言葉だ。

 本書で描かれる6人の若者は "自分の才能" というものに限界や疑問を感じたりしながら、最終的に自分の生き方を自分で見いだしていく。そういう意味では、若者の精神的な成長を描いた青春小説だ。

 プロジェクトの中で苦しみ、悩みながらも、自分なりの "正解" をつかんでいく姿は清々しいし、若者だからこその希望も感じる。

 テーマは重いが、読後感は悪くない物語だと思う。





以下は蛇足。



 本書を読んでいて考えさせられるのは「AIとの向き合い方」だ。作者はAIについて全肯定することも全否定することもない。実際、6人のレミントンへの向き合い方もそれぞれで、誰が正解で誰が間違いかと云うことも描かれない。結局は人がどう活用するかの問題だということだろう。



 以前、ごく一部にAIを使った文章が含まれる小説が著名な文学賞をとった、というニュースがあった。もっとAIが進化すれば、ベストセラー作品を創り出すことも可能なのかも知れない。

 でも思うのだ。100万部売れる小説を出す作家さんもスゴいが、それより遙かに少ない部数しか売れなくても、一部の人には深く刺さり、新作を待たれる作家さんだって充分スゴいし、そこに価値の大小はないんじゃないかと。



 映画だって同じだ。100人のうち99人が「傑作だ」って評価しても、1人くらいは「駄作だ」って云う人はいるだろう。100人のうち99人が「くだらない」って云っても、1人くらいは「大好きだ」って云う人はいるだろう。

 「人によって評価は様々な作品」が混在する。

 そういう状態こそが健全なのではないか?

 そういう中から、新しい才能が生まれてくるのではないか?

 それも多様性のひとつなのではないか?



 AIが創作の世界に入ってくると、経済的な視点が中心になって、多様な作品・多様な作家のありようが変わっていってしまう(産まれ難くなっていく)ような気がする。

 取り越し苦労なのかも知れないとも思うが、もっと怖いのは、そういう意見さえもAIは取り込んで、AIによる "多様性の演出" が行われてしまうのではないか、ということ。そうなったらもうディストピアSFの世界だね。

 傑作も駄作も、人間がそれを読んで観て感じるさまざまな思いすら、AIの計算通り・・・なんて世の中になったりして・・・まあ、その頃には私は生きていないだろうから、心配する必要はないか(おいおい)。





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