評価:★★★★☆
通販の電話申込を受け付けるコールセンターに「村瀬梓を預かった」という電話が。無断欠勤が続いているアルバイト女性を誘拐したと告げる犯人は、身代金1億円、受け渡し役に100人の警官を要求。各自に100万円ずつ持たせ、それぞれ指定された場所へ向かえと告げる。犯人の不可解な要求に、警察も梓の "関係者" たちも混乱の渦に巻き込まれていく・・・
TVの通販番組の電話受付を担当する大阪のコールセンター。クレーム電話への対応に出た社員・下新地直孝(しもあらち・なおたか)に、電話の向こうの声は告げる。
「村瀬梓を預かっている」「早く警察に連絡しろ」「でないと村瀬は死ぬよ」
梓の本業はタレントで、弱小芸能事務所ショーゲキに所属している。しかしアルバイトで働いているコールセンターを、ここ3日間無断欠勤していた。
誘拐犯は、奇妙な要求を突きつける。
「身代金は1億円。その受け渡しのために100人の警官を用意せよ」。
そしてその100人をSNSに登録させ、SNS経由で指示が出される。
すなわち100人に100万円ずつ持たせ、別々の場所へ向かうように命じたのだ。近い者は大阪近郊だが、遠くは千葉県まで行かされる者も。そして個別に制限時間が設定される。遅れた者がでたら村瀬の身の安全は保証しないという脅迫付きだ。
なんとも異例ずくめな誘拐なのだが、意外にも、かなり早い段階でこの誘拐劇は "結末" を迎える。
本書は文庫で約600ページ(!)という厚さなのだが、200ページまでいかないうちに誘拐事件自体は "決着" するのだ。しかし犯人は捕まらないし、この奇妙な誘拐を引き起こした目的もまた不明のまま。
そしてここからは、この誘拐の裏に潜む "秘密" が解き明かされていく。誘拐事件は、この物語の壮大な "前振り" であると同時に、"巨大な謎" となって物語の中心にそびえ立つことになる。
なにぶん長大な作品ゆえ、多くの登場人物がいるのだが、その筆頭は梓が所属する芸能事務所ショーゲキの社長・安住正彦(あずみ・まさひこ)だろう。
本書の序盤、どこかに監禁された安住が、室戸勤(むろと・つとむ)という男から虐待を受けているシーンがある。室戸はこの10年、時おり安住の前に現れ、虐待の限りを尽くしては去って行く、ということを繰り返していた。
安住にも、コールセンターとは別に犯人から脅迫の連絡が入る。彼は自分の資産に加えて借金までして1億円を用立てる。売れないタレント一人を、なぜそんなに大事にするのか。その理由が、室戸と安住の過去の "因縁" に起因することが物語の進行とともに明かされていく。
麻生と三溝(みつみぞ)は2人組の刑事。誘拐事件の初動捜査に加わるが犯人逮捕に至らず、やがて捜査方針が変更され、誘拐事件から外されてしまう。しかしそれに納得できずに独自捜査を続けていく。
北川留依(きたがわ・るい)は、芸能事務所ショーゲキの副社長にして安住の私的なパートナーでもある。しかし、梓について何らかの事情を知っているような節も。
コールセンターの社員・下新地直孝は、密かに梓へ想いを寄せていた。しかし犯人と直に話したにもかかわらず、逮捕については全く役立たず。
彼もまた自ら、犯人特定の努力を始める。彼の同僚の淵本(ふちもと)も、なかなかいい味をだしてる。
そして村瀬梓本人も、謎を秘めている。タレント活動をしていながら、なぜかあまり売れようという意欲を見せない。家族についても黙して語らず。
誘拐ならば、通常は真っ先に家族にかかってくるはずの脅迫電話が、職場と安住にかかってきたのも異様だ。犯人は梓の家庭環境を知っていたのか?
重層的な物語の中を多くの人物が動き回り、パズルのピースは周辺部からどんどん埋まっていくのだが、中心部の絵がなかなか浮かんでこない。
そんな中、過去の自分と対峙しながら、単独で誘拐事件を調べ続ける安住は、真相へと肉薄していく。
その過程で明らかになるのは、梓も犯人も、凄惨な過去の記憶、底知れぬ悲しみ、そして巨大な絶望に囚われていたこと。それは読む者の心に激しい痛みを感じさせるだろう。
第61回江戸川乱歩賞(2015年)を受賞した『道徳の時間』に続く第2作。
奇妙な誘拐は魅力的な謎に包まれ、読み手を牽引していく。その後に明らかになるのは、なんとも悲惨で壮絶な物語。しかしそれでも、ページを繰る手が止まらない。
一連の事態に決着がつき、台風の過ぎ去った翌朝のような、一抹の不安を含みつつも平穏なエピローグを迎えるまで、一気に読ませる。
本書は大藪春彦賞の候補にも挙がったという。惜しくも受賞は逃したが、読み応え十分なサスペンス・ミステリの傑作だと思う。
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