もう知らない人はいないくらいメジャーになった、新海誠監督の新作だ。
この記事を書いている段階で、もう3回観てる。もう1回くらい観に行くかも知れない。それくらい、楽しませてもらったということだ。
九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。
扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、草太は扉を閉めて鍵をかける “閉じ師” として旅を続けているという。すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。
「すずめ すき」「おまえは じゃま」
ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう―! それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が1本欠けた小さな椅子。
逃げるダイジンを捕まえようと3本脚の椅子の姿で走り出した草太を、すずめは慌てて追いかける。
やがて、日本各地で次々に開き始める扉。不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、日本列島を巻き込んでいくすずめの ”戸締まりの旅”。
旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所ですずめを待っていたのは、忘れられてしまったある真実だった。
さて、以下にこの映画について思ったことをつらつら書いてみる。致命的なネタバレはない(つもり)で書いてます。
■疑問
最初にこの映画を見たとき、2つの疑問を持った。
疑問その1。
映画の冒頭、ヒロイン・すずめが草太を追って廃墟へ向かうところ。
道ばたで一言だけ言葉を交わしただけの相手に、そこまでする(惹かれる)のは何でだろう、と思ったこと。
疑問その2。
すずめが草太から「きみは死ぬのが怖くないのか?」と問われて、すかさず「怖くない!」って叫び返すところ。
彼女は17歳の女子高生。このさき数十年の人生が待っていて、楽しいこと嬉しいことももたくさんあるだろう。そんな人が吐く台詞ではない。
しかしどちらの疑問も、映画を観ていく中で氷解していった。
■震災
11年前の東日本大震災の日、私は職場にいた。関東地方の内陸部で、鉄筋の建物の4階にいたのだけど、ものすごく揺れて「いまこの建物が倒壊したら俺は死ぬんだろうなー」なんてぼんやり思ったのを覚えている。
その後、TVのある部屋に行ったら、あの "津波" のシーンが流れてた。家も車も何もかも飲み込んでいくのを見て、呆然としていた。あまりの衝撃に現実感が追いついていかなかったのだろうと、今になって思うけど。
映画の冒頭は、幼少時のすずめが荒野を歩くシーン。廃墟と化した家々、その上に乗り上げた漁船・・・いずれも、11年前の震災の爪痕を伝える報道VTRで見たものだ。ここですずめが震災で母親を喪った被災者であったことを観客は知る。
この震災は、すずめの中にトラウマとして残るだけでなく、彼女の価値観にも刻まれているのだろう。「人の生死は運次第」「自分はたまたま生き残っただけ」彼女は心のどこかでそんなふうに達観しているのかも知れない。彼女の心の中では、死は特別なものではなく、身近に存在するものに感じられるのかも知れない。だから "疑問その2" で挙げた「死ぬのは怖くない」なんて言葉が出てくる。
しかし、その記憶はとてつもなく哀しく、苦しいことでもある。だからもう二度と起こってほしくない。そういう気持ちも心の中を占めている。
だから、映画の中盤で彼女は "あの決断" を下すことができた。これも普通なら「私にはできない」と拒否してもおかしくないところを、彼女は苦渋と悔恨に苛まれながらも実行してしまう。
この映画は、徹頭徹尾すずめの物語である。彼女と、彼女の心の中の震災の記憶の物語であり、なにより彼女の成長の物語だ。
草太によって巻き込まれたはずが、その彼が早々と椅子に姿を変えられてしまい、しかも中盤からは物語の表舞台からも姿を消してしまうことによって、物語の焦点がどんどんすずめにむけて絞り込まれ、彼女が主体の物語へと変化していく。
■賛歌
すずめは草太に出会い、彼とともに旅をする中で変わっていく。
草太は映画の終盤で、「人は少しでも命を永らえたいと願う」と叫ぶ。
そしてスペクタクルな場面が決着した後、すずめの語る台詞は、映画冒頭時点の彼女からは出てこないものだ。
新海監督がこの映画で訴えたかったのは、まさにこのシーンなのだろう。
つらく悲しいことも多いけれども、少しずつでも前に進もう。
この世は生きるに値する。人間は愛するに値する。
生命への賛歌、人間への賛歌が心に響く。
ここがこの映画の真のクライマックスだ。
■善人
ダイジンを追って、扉を閉める旅に否応なく加わることになってしまったすずめだが、行く先々で出会う人々はみな "いい人" ばかりだ。
「こんなにいい人ばっかりじゃないよ」って思うんだけど、映画を見終わった後なら、この映画で訴えたかったものを知ったなら「こうでなければならない」と思える。
エンドタイトルで、彼ら彼女らが再登場してカーテンコールをしてくれるのも楽しい。
でも考えてみたら、登場人物は基本的に善人ばかりなのに、それでも2時間の冒険映画に仕立て上げてしまうのもすごいなとも思う。
■円環
唐突だが、「ふしぎの海のナディア」というアニメがある。第1話で主人公とヒロインの出会うのがパリのエッフェル塔。そして世界中を巡る大冒険活劇の末、物語は最初の場所に戻ってくる。クライマックスの最終決戦はパリ上空だった。
こんなふうに、最後の最後で "始まりの場所" に帰ってくる物語が好きだ。
この映画もそういう "円環構造" をもっているのだけど、特筆すべきはそれが "二重" になっていることかな。
このあたりは詳しく書くとネタバレになってしまうけど・・・。
■再会
もっとも、これくらいは書いてもいいかな。
新海監督の前2作のラストはどちらも "再会" だった。本作もそれを踏襲しているのだけど、前2作ほどドラマチックではない。
でもこの映画のラストにはこれがふさわしい。
映画の最後はすずめの台詞で終わる。映画館で観たときには全く感じなかったのだけど、小説版を読んだら、この台詞には実は深い意味が込められていたことを知った。まあ、映画だけで気がついた人も多いのだろうけど、いかんせん私はニブチンなので。
小説版を読んでから観た2度目のラストシーンは、更に感慨が増した。
■声優について
主役の2人は、専業の声優さんではないけど、しっくりきていて、ぴったりだと思った。まあ、オーディションをしたのだろうから、下手な人が入ることはないとは思うけど。
この映画、意外なほど声優さんが少なくて、俳優さんばかり。だけど、どの役の人もハズレなし。専業の人をも含めて、素晴らしいキャスティングだと思う。
個人的にはすずめの叔母を演じた深津絵里さんがよかった。いまから20年くらい前に、彼女の出ていた舞台を見た記憶がある。そのときも、とても達者な人だと思ったのだけど、年齢を重ねてさらに円熟してきたようだ。
草太の友人・芹沢を演じた神木隆之介さんは、最初は彼だとわからなかったよ。「君の名は。」の瀧君とはガラッと変わった役を演じていて、これも見事。
上にも少し書いたが、小説版も読んだ。新海監督自らの書き下ろしだ。
基本的に映画と異なる部分はないのだけど、登場人物、とくにすずめの心情が細かく書き込まれているので、そのあたりは興味深く読める。
映画は徹底的にすずめが主役なので、小説も当然ながらすずめの一人称で綴られる。驚いたのは、すずめが関わっていないシーン(登場していないシーン)も、すずめの一人称で書かれていること。
そのためにちょっと無理をしてるかな、とも思うけど、これは監督のこだわりだね。
映画の中の世界すべてを、すずめの視点から描きたかったのだろう。
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